水掛け


「水、で広めよ」

 はぁ?
 呼び出された忍としては即座に承服すべき所で、私は耳を疑った。

 私の主は松永久秀。
 なぜか唯一信長公が見逃してくださっている人で、給金も良い。
 ただし、気を抜けば捨て駒にされかねないのが玉に傷。
 これは戦国の世において、殿だけの欠点ではないけれど……。

「聞こえたのかね」

「ハッ、水の件。急ぎ領内へ広めます」

「石もよい、が季節柄というものはある」

 暗い含み笑いの奥で、何を画策されているのだろう。
 敵でなくてよかった。
 今のところは、と思わずにいられない。

「この寒空の曇天のもと、旧年中に嫁取りした男が水を掛けられる
 肌を切るような水の冷たさと切迫。氏子に加わる通過儀礼とでもいえば
 さぞ領民の鬱屈は晴れることだろう。そうは思わんかね」

 それ……ただの嫉妬では……。

「まこと賢明な策かと存じます」

「違いない、が、凡庸な返答は退屈でもある」

 悠然と言葉をくゆらすように近づく主。
 はっきり言って逃げたい。
 が、そこは主従関係上「すいません、じゃあ」と勝手に下がれないのが仕える者の悲しさだ。

「ほんとうは心に何を思っているか、直答を聞くは我が務めか……見逃すか」

 見逃す気は皆無に違いない。
 媚びれば問い詰め、異議を唱えればなおさら粘っこくわけを問う。
 そういう難しい性格は、名実ともに一筋縄でいかないのが面倒極まりない。
 よそへ移ろうか、などと思えば輝く黄金が頭をよぎる。

 ……それだけ?

「放免されたいかね?」

 黙って頭を垂れている。

「沈黙は尊いものだ。しかし、つまらぬものは無に等しく味気ない」

 私のような者の前に片膝をついた声は低くなる。
 やわらかく恐ろしく気まぐれな、それでいて心地よい音色。

「急ぎ、策を」

 低めた声は震えている。

「私には、急げ、と言った覚えは無いのだがね」

 ほらまただ。
 主といえど思い通りにされるのは忍としてどうかと思う。
 それすなわち生死を左右される隙を作りかねないからだ。

 顔を上げ、主を見れば、余計に相手の思うままになってしまう。

「雑念の多い女だ。主の望みを見て見ぬふりをしようとしまいと、変わるまいに」

 ほんとうに困った方。
 ただの忍に、身に過ぎた想いを抱かせるなど。
 他国にいては味わうことができない美味にも等しい、ひどい仕打ちをされるとは。















◇2015.2.21
 松永さんが忍に片想い話。
 旧年中に新しく妻を迎えた男性に水をかける、という習俗は実在します。
 しかも松永久秀が始めたという説があり、俳句の季語「水祝(みずいわい)」にもなっているのが元ネタです。






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