一度聞いてみたかった


思いがけない残業の後、詰所を出ると約束の時間はとうに回っていた。仕事の途中で一度、遅くなることは連絡したのだが、走って近道をして目指す十一番隊の居住区域へ着いたときには、やはり、あと一度連絡しておくべきだったと思った。

「遅ぇ、馬鹿野郎。」

剣八は、廊下に近い柱へ寄りかかるように背をあずけて立っていた。縞の粗い浴衣の肩へは洗われて濡れた髪が無造作に落ちており、その滴で出来た染みが冷んやりとした温度に変わってから、やっと現れた相手を罵った。

「ごめんなさい。急に松本副隊長が去年の報告書の数字出してほしいとか、やっぱり書式も変わってるとかで、ごたごたしちゃってて。」

運悪く捕まったが奮闘したおかげで、書類はなんとか明日の提出日に間に合ったけれど、のそのそと部屋の奥へと気だるげに入って行く剣八はと言えば、予想以上に本日の当初の予定に興味をなくしてしまっているようだ。

「ちょっと、あのー…剣八さん?」

「…んだよ。」

衣紋掛に引っ掛けてあった手ぬぐいで髪を乱暴に拭きながら、腰をおろしているのは布団の上であり、片手で上掛けを引き寄せつつを見やった目はジロリ、というよりも、ギロリというべき不機嫌さが漂っている。

「あのー、私、これからご飯とか、お風呂とか、行ってこようかと思ってるんです、けど。」

もちろん、計画通りならそれらは全てゆっくり二人で共有するはずの時間だった。ところが今は、早や寝ようとしている剣八と違い、は仕事場から直行してきた黒い死覇装姿で、薄暗い殺風景な部屋の畳の上にぺたんと座っておずおずと上目使いで出方をうかがっている。

「俺ぁ、寝る。」シンプルな返事だった。

「そんなぁ!」

そんなこと言ったって、仕事だったんだし、私のせいじゃない。…待たせるのは悪いと、急いで来たのに…。

「でもね、仕事だったんだもん! せっかく約束してたし、時間空けてもらってて悪いとは思うけど、ほら急に忙しくなることってあるでしょ?」

「ヒラが隊長より忙しいわけねぇだろうが」

全体への目配りやら、非人間的な時間にかかる緊急召集やらに対応している比重は下位の隊士とは比べものにならない。

「ヒラじゃない。一応っ、席官、で」

の、一応、と言った後の言葉は、まっすぐ自分に据えられた視線の、ずしりとした感触の前で弱々しく口の中で立ち消えた。伝えかたが粗暴なのは否めないとしても、正しさは、約した刻限に遅れて来て言い訳しているの方に無いことはわかっている。

「…ごめんなさい。」

目をそらして、自分の手で逃した時間が、ここには戻ってこないことを噛みしめた。

「ひとつ、聞くけどな」

それは、剣八から返されるだろうとあれこれ考えたどの言葉とも重なっていなかった。

「ハイ。」

は、知らず背筋に力を入れて続きを待った。

「お前は、どっちが大事なんだ」

これは、ひょっとして聞いたことはあるが実際に体験したことのない、あの黄金のパターンなのだろうか。仕事を優先する相手に恋人が問うシチュエーションで…

「仕事と、」

恋人とどちらが大事か、なんて、まさかそんな非論理的で、仕事の重みも知らない人間のような浅薄な台詞を? 
でも、それは見方を変えれば一途な愛情ゆえの嫉妬や、もどかしさの表出でもあるだろう。
しかし、そんなことを言う更木剣八でも良いのだろうか、なんとも似合わないだろうけれど、同時に一方では、聞いてみたい言われてみたいと思わずにはいられない。

…仕事と…!?

は固唾を飲んで続きを待った。

「てめえの人生と。」

人生…。私の。数瞬、理解するまでの時間が流れた。

「あ……自分の、人生……あー、そっか。」

脱力したように両手を畳について、心から納得が行ったとばかりに何度も「あー、自分の人生…ですよね…」と繰り返す。その姿は、他人優先で仕事をしてきた自らを後悔しているようにも見える。深い感銘を受けたことは確かだ。

「だろ。」

「…はい…」

しおらしく返事をしていたが、が、自分の期待した言葉以上のものを聞けたことに気づいたり、「やっぱり、さすが…」と剣八へ尊敬の気持ちを増したのは、一風呂浴びて少し落ちついて、より先に寝てしまった男の体温を追って、眠りにつく頃のことであった。










◇06.06.14◇
たまには不機嫌な、そして、決して器用に恋愛してそうでない二人の話になりました。


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