不安定に波に揺れる小舟の上。
 私は懐剣の鞘を払い、じっと刃を見つめている。

 ”いざという時は、武門のおなごらしい最期を遂げなされ。”

 旅立つ前夜、義母はこう言って飾り気の無い懐剣を渡してくれた。
 簡単に言えば、生き恥を晒すことなく自刃すべし、という教えだ。

 果たして、今は「武門の恥」とか「家名に傷」という状況なんだろうか?
 それがどうも、よくわからない。
 私は、まだ目的地にさえ着いていない。
 いや、それがいわゆる失態なのか。
 それとも潔く心を決めかねているのは「恥」だろうか。

 困ったことに、独りで暗い海の上を漂流している私には誰も答えてくれない。
 舳先に灯した明りが、頼りなく揺れている。


    波の花 〜1〜


 手は、使い慣れない櫂で痛めてしまって潮風がしみる。
 だんだん足先から体が冷えて強張っていく。
 このままだと、どれぐらいで死ぬのだろう。

 もし、誰かに見つけてもらえれば父や義母と約束したことも果たせるけれど、と考えているうちに、私が家を出ることになったあれこれを思い出した。



 私の家は代々、土佐の地頭を務める家柄だったが祖父の代から徐々に勢いをなくし、今やせいぜい小豪族と呼ばれるほどの規模になっていた。
 それでも、細々とではあっても、領主さまと呼ばれる父は、それなりの財を貯え武門の誇りを堅持していた。
 その家へ、私の母は京の都から嫁いだらしい。
 母は物静かな人で、時々、大切そうに飴色の櫛を出しては私の髪をすいてくれたが、それ以上の記憶は無い。
 というのも、母は私が八つの年に病で亡くなったからだ。
 すぐに後添いの義母が来て、弟や妹が生まれたあたりから、家中での私の扱いが少しずつ疎かになっていった気もする。

 とはいえ、私からすれば義母や義妹達との仲は上手く行っていた。
 私は、良家の姫らしい教養を身につけるために絹の小袖を着て香道や和歌を習うより、糸を染めたり縫い物をしたり、貝を拾いに浜へ行かされるほうが好きだった。

 「様は、そのようなお生まれではありませんのに」と言ってくれる者も居たけれど、外へ出て自由に過ごせるのは楽しかった。

 だが、素朴で静かな毎日は、とある夕べに起こった事件で一変した。
 父の屋敷が四国の覇者長曾我部元親率いる一団に襲撃されたのだ。

 男達が出払っている間、女子供は屋敷の奥まった一室に避難していたので、私は噂に名高い西海の鬼を見ることも無く、遠くの諍う声や争いの喧騒を聞きながら、怯えて震える義妹を慰めていた。

「母上、怖い」

 義妹は、ひしと義母にすがりついて涙を零した。

「母上っ! わたくし、あんな荒くれ者のところへは行きとうありませぬ」

 そんな話は初耳だ。驚いた私は思わず義母を見た。

「何を言うのです。長曾我部殿は四国を統べる御方。この上なき良縁ですよ。」

 確かに義母の言うように、相手はこれ以上望めない御大身だ。
 運良く後継を産めば落ち目のこの家の繁栄も約束される。
 でも、話が本当なら婚約相手の家を襲うわけがない。

「義母上様。末姫の縁組のお話は初耳でございます。まことですか?」

 私が聞くと、義母はバツの悪そうな顔をして不機嫌に答えた。

「いずれ正式にお返事が届き次第、皆に言う心づもりでした」

「では、まだ返事が無いのですね」

 義母が渋々うなずく。それでは先方が縁組をどう思っているのか分からない。
 義妹はいっそう涙に暮れて悲しそう訴える。

「いやです! お返事など来なければ良い!
 もっと、都めいた殿御と添いとうございます……」


 私が父に呼びだされたのは、略奪騒ぎから数日が過ぎた夜だった。
 父の部屋へ出向くと、義母と義妹もそろっていた。

 聞けば先日の騒ぎで秘蔵の南蛮渡りのギヤマン杯を盗られたという。
 父は顔色が冴えず、義妹もうち沈んでいる。
 にこやかなのは義母一人で、いそいそと私を迎え入れた。

、先立っては苦労をかけましたね。さ、お茶をおあがり」

「あの、何の御用でしょう」

 おそるおそる聞くと、義母はすっと背筋を正した。

「例の縁組のお話です」

「返事が参ったのですか?」

「いいえ」

 義母はきっぱりと否定してから溜息をつく。

「あちらのご家中では、別の御家とのお話が進んでいるのやもしれませぬ。
 されど、こちらに調べる術は無し」

「はあ」

「忍を放って探らせようにも相手は百戦練磨の武人。
 並の者では容易く気取られ、なまなかなことでは内情を探らせますまい」

「そうなのですか」

「そこで、そなたを見込んで頼みがあります」

「はい?」

「名にしおう西海の鬼とて、よもやそなたが間者とは思わぬでしょう。
 女と見れば油断もあるはず。屋敷へ首尾良く入った後は」

 水を流すようにとめどなく、とんでもない事を話し続ける義母を懸命に遮った。

「義母上、そんな無茶な道理はございません!」

 反論しようとした私に、義妹がここぞとばかり、にじり寄って頭を下げる。

「どうぞお願いいたします、姉上。
 長曾我部殿に奥方がおいでかどうか、それだけで良いのです」

 確実に、義母と義妹の期待している結果は全く逆だろう。
 難しそうだから適当な他家へ嫁がせよう、などと言えないところが武家の窮屈なところだ。
 私は左右から二人に頼み込まれ、その向こうに垣間見える父に助けを求めた。

「父上、忍をやってはいかがでしょうか」

 父は重い口調で憂鬱そうに答えた。

「あれは、この前の一件で顔を見られておるわ。
 すまぬな、

 最後の言葉から、これが決定事項だという気配がひしひしと伝わった。
 たたみかけるように義母が話を進める。

「着物と舟は整えたゆえ、寄る辺無き身を装って、あちらのお屋敷へ入りなされ。
 少しの辛抱ですよ。様子を見て、誰ぞに便りを持たせるゆえ」

 とどめに、これもお家のため、と言い添えられては私に反論の余地は無い。
 私の育てられた世界における女の働きは、家のために嫁ぎ、子を成す所に価値がある。

「心得ました。ご期待に添うよう、探ってまいります」

「頼みましたよ」

 かくして、私は生まれて初めて海へ小舟で漕ぎ出たのだった。









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◇2010.9.14◇
 次回は、ちゃんとアニキが登場します。






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