波の音が、ずいぶん和やかに聞こえる。
今、乗せてもらっている屋形舟は三方の壁の上半分に格子がはめられ、目の前の炉には、ちらちらと赤く炭が輝いている。
同じ海の上なのに、先ほどまでと打って変わって安心している自分が、不思議に思える。
波の花 〜2〜
「何があったか知らねえが、思い詰めるもんじゃねえぜ」
説教してくれているのは、漂流していた私を見つけ、素晴らしい舟足で掛けつけてくれた恩人だ。
助けられた時、私が朦朧としつつも、しっかり懐剣を握りしめたままだったせいで自害する所だと思われたらしい。
「はい。もうだめかと」
私は、疲れたのと気が緩んだのとで眠気が差し、重い瞼をしばたきながら相づちを打つ。
どうも目の前の、がっしりとした大らかそうな男には自刃すべきか悩んでいた本当の事情を言い出しにくい。
「手ぇ見せてみな」
言われるままに手を出すと、マメが潰れて血が滲んでいた所へ晒を巻いて手当てしてくれた。
この男は見かけによらず気のつく者らしい。
乗っている舟は華美な作りでこそ無いものの、腕の良い漕ぎ手をそろえているようだ。
夜釣りに繰り出している裕福な船乗りか、舟遊びの好きな豪族だろうか。
目を上げると印象的な銀色の髪に灯火が映え、よく晴れた青空の色をした隻眼は注意深くこちらへ向けられていた。
整った目鼻立ちを梅紫の上着が引き立てて、ある種の風格すら感じる。
私は今まで、父上以外の男をこんなに近くから見ることなど無かった。
興味深く眺めていると、ふたたび快活に話しかけられた。
「あんたツイてるぜ。あの辺りは潮が複雑だ。下手すりゃ外海まで流されちまう」
「はじめは、海岸ぞいに漕げてましたのに」
壁にもたれている体が重く眠くなってくる。
だんだん瞼が落ちてきて、いけないと思いながらも抗えない。
「へぇ、目指す場所でもあったのかい?」
「はい。長曾我部、元親殿のお屋敷に」
目を閉じたまま答えると、数秒、妙な間が空いた。
「そうかい。それにしちゃ、ずいぶんと流されてたもんだ」
返事には、くつくつと喉で笑う声が混じっていて、私は納得した。
相手が黙りこんだのは、呆れていたせいだ。
「笑わなくてもいいでしょう」
「ハッ、寝ながら文句つけるんじゃねえよ」
「起き……て、ます……」
ただ、だんだん周りの音が遠のいて行くだけ。
こんな男だらけの舟で、というのもあるが、許しも得ずに眠りこむのは礼を欠く、と必死で目を開けた。
ところが、自分の着物の裾を引っ張って直し、イグサで編まれた円座の上に座りなおした直後ぐらりと体の芯が揺らいだ。
「あっ」
「っと、危ねえ」
支えてもらったおかげで、ノロノロと壁に背中を預けて座り直す。
そうするうちに、またもや眠気が意識を崩してゆく。
「はっはは、しょうがねえなぁ。意地張らねえで寝とけ寝とけ」
今度こそはっきり笑われた。でも言い返そうにも気だるくて仕方が無い。
「ついでだ。あとで西海の鬼にも会わせてやるからよ」
その声へ、私は、かろうじてコクリとうなずいた。
それにしても、と、眠りに落ちながら思う。
私は助けてもらったのに、この方の名を聞き忘れている。
それに……やけに面倒見が良い人。
助けてもらった上、そこまでしてもらうのは……。
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◇2010.9.20◇
次回は元親視点で、つづきます。