ビルの外へ出れば、氷のような風が頬を裂く鋭さで襲ってくるだろう。
一応、用事は済んだけど、私はどこかで一休みしたい気分だった。
なにか甘いものを飲もう。
とても疲れているから。
Killing Me Softly With His Song 〜前編〜
12月。
冬の寒さ以上に冷たいのは世間の風だ。
簡単に言うと、私は就職活動がうまくいっていない。
今日も面接に来たけど、手ごたえが…。
―――やっぱり、家が、あんな仕事してるからかな…
カバンを肩に掛けなおすと、頭をかすめる不安を振り払った。
いや、関係ない。
家業が何だろうが、私が就職するのと関係があって良いわけがない。
私が頑張って試験とか面接を受けていたら、きっと結果が出るはずだ。
私は、ごく一般的な社会人になって、仕事の合間に職場の人とカフェに行ったり、週末はショッピングに行ったりデートをしたり、ゆくゆくは幸せな家庭を持って、平和に、穏やかに、地道に、とにかく静かな人生を送るって決めてるんだから。
決意を新たにしつつ、私は案内図を見てから隣の建物の、自販機がありそうな場所へ足を向けた。
棟続きのビルは上の階にいくつか事務所が入っているだけで、不況のあおりを受けて空室が多い。そのせいか、1階の奥にある休憩コーナーの周りは、そう遅い時間でもないのに人気が無かった。
「どれにしよう?」
コインを放り込んでボタンを押すと、機械的に紙コップがセットされてココアが注がれはじめる。
窓の無い無機質な空間には2台の自販機が置かれているだけで、イスやテーブルは無い。ドアの無い入り口と向かい合う場所の壁にもたれてココアを一口飲む。
甘い熱い液体が、じんわり胃に染みわたる。
ほっと一息ついて飲み物を啜っていると、二重の自動ドアが次々と開く音に続いてカツカツと早足の靴音が聞こえてきた。
閑散としたエントランスには音がよく反響している。
―――働いてる人かな…
そう考えた矢先に足音が止まり、抑えたトーンの話し声が響いた。
携帯電話で話しているらしい。
「いや、大丈夫だ。だれもいない。
……ああ、わかってる。」
早口で、なんだか焦ってるみたい、と思った途端、ゾッと冷たい感覚が背筋を駆け上がり危険を知らせる警報が頭の中で響き渡った。
もし私が動物なら、直感に従って一目散に走って逃げているレベルだ。
思わず手の中のものを取り落としそうになって、力をこめる。
第六感。
俗にそう呼ばれるものが、私は、幸か不幸か、人一倍強い。
逃げないと。
できるだけ早く。
ただし、不審者扱いされないように、私はできるだけ自然なスピードで部屋を出た。
「っ!」
私を見るなり、不自然なほど驚いた男は、黒いスーツを着ていた。
手にした携帯電話をセカセカとたたんでポケットへ突っ込む。
歳は22〜23ぐらいで、クセのある濃い栗色の髪は地毛かもしれない。
さあ、私は単なる通りすがりなんだから、急いでるそぶりを見せずにここから離れよう。
本当は、全速力で走りたいぐらい嫌な予感でいっぱいだけど。
「おい。」
「はい?」
「このへん、ポストないかな。」
「あ、私、就活で来てるんで…ちょっと。」
「そうか。」
ポスト?
すれ違いざまに聞かれたことを、そう深く受け止めたわけじゃなかった。
ただ、気をとられたのは確かだったらしい。
あいまいな笑みを浮かべて通り過ぎようとしたとき、新しいパンプスの足元がうっかりお留守になって、そこへ、急いでここから離れようという焦りが重なり、何も無いところで私はバランスを崩した。
「わ、あ…っ」
不恰好に伸びた手から紙コップが躍り上がり、運悪く近くにいた男に、バシャッと中身がかかる。
「うおアチッ、おい、アッツイじゃねーかっ!」
「あっ、ご、ごめんなさいっ! すいませんっ!」
男はポケットからハンカチをひっぱり出すと、濡れた肩のあたりを乱暴に拭きはじめる。
私も手伝おうとカバンからハンカチを出しかけて、ピタリと動きを止めた。
だれか、いる。
一種スイッチが入った状態、とでも言うのか、気配に過敏になっていた私は、迷わず、謎の気配から遠ざかることを選んだ。
それは、エントランス西側の階段にあった。
エスカレーターが併設されているので、誰か隠れていても私がいる場所からは姿を見ることができない。
「おい?」
怪訝そうな声を聞いて、しまった、と思うと同時に一気に心拍数が跳ね上がる。
なにしろ、突然怪しい動きをした結果、私達の立っている位置は変わり、上から見れば、階段、栗毛男、私、の順に並んでしまっている。
つい、身近な物の後ろに隠れてしまったから、しようがないのだけれども。
「えー…と、」
危険信号がガンガン響いている頭の中に、ハイスピードでわかっているだけの状況が加わってグルグルまわる。
目の前の男は、誰かにこっそり見張られているらしい。
ということは、カタギだとしても、まともな状況じゃない。
…階段にいる誰かを、こいつは気づいてない。
「何だ?」
緊張している私の目線を追って、栗毛男がこちらに背を向けた瞬間、結論は出た。
―――ダメ。わかんない!
カバンをひっ掴むと、はじめからこうしとけば良かった、とばかりに走り出す。
でも、数歩も行かないうちに強い力で引き戻された。
「待てよッ、逃げてんじゃねぇよ。お前さ、なんなんだ?」
「やだっ!」
「何もいねぇじゃねーか。さっき、何見てた? あ?」
静まり返っている階段のほうをアゴで指し、怒鳴ってこそいないものの、かなり高圧的な聞き方をしてくる。
こいつ、やっぱりカタギじゃなさそう。
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