張本人 〜中編〜


には甲斐へ斥候につかわしております。戻り次第ご報告いたしますゆえ」

 すでに五日前のことだ。
 政宗が米沢城にて稽古相手の忍を呼んだ折、控えていた片倉小十郎からその不在を知ったのは。
 忍の足なら数日で戻るだろうという予想は外れた。
 しかしそれは、まったく気にならないことだった。
 それとは別に政宗を悩ませる現象が少しずつ増えていったことに比べれば。

 日々、政に鍛錬にと忙しく過ごしているにも関わらず、ふと気がつけば奇妙な空白が日常の所々に忍びこんでいるのだ。

 ある昼さがり、書状をしたためるべく文机にむかい筆を取ったあと、おそるおそる近習の者が声をかけるまで硯を見つめていた自分は何を考えていたのだろうか。ともかく書状の内容ではない「なにか」だったことは確かだ。
 日がたつにつれ、この見えない敵は増えるばかりであった。
 注意せねばと気を引き締めた矢先にもかかわらず、朝餉の椀の中に目を留め「あの……殿。なんぞご不審な物がござりました、でしょうか?」と給仕役を怯えさせるに至っては、人目がなければ自分で自分を殴ってやりたいほどの情けなさを感じずにはいられなかった。
 その上、暇さえあれば刀を手にしなければ落ちつかない性分であるはずが、雨が降り出した途端に意気上がらず鍛錬を切り上げるとは。
 己の事ながら……いや、己の事だからこそ心が騒ぎ気が立ってたまらない。

 ……俺が、どうかしちまってんじゃねえ。原因があるはずだ、原因が!!

 ところが、いかに気を引き締めようと心ここにあらずの風。
 しかも原因探しにも忙しい政宗が周囲の者から案じられるようになったのは当然のことだった。

「片倉さまぁ、なーんか筆頭が、こう、アレなんス」
「片倉殿。殿は何か、その、朝晩の御膳について仰せではありませんでしたか?」
「片倉さま。筆頭、狩の途中で早駈けで鷹を追い越しちまったんですぜ? 気が乗らねえことでもあったんスかねぇ……」
「片倉殿。近頃、殿が夜半に御酒をお申しつけになるのですが。いえ、量はさほどではございません」

「おお、片倉殿。殿が文庫より書を持てと、ご所望くださいましたぞ!」

「書を!?」

 初め、片倉小十郎は数ある陳情を大して気にかけていなかった。
 たとえ竜の右目の二つ名があろうと、常に政宗の傍らにあるわけではない。伊達家に仕える家臣は多く、近習の者に任せられることは任せておくのが平時の常。そうでなくては、いざという時にそなえた錬兵、献策などが滞ってしまう。

「やっと殿も軍書に親しまれる落ちつきが出てこられたのですなぁ」

 嬉しげな報告が、それまでの楽観を打ち崩した。
 策をこうじて甲斐へやった忍。
 あれがたとえ生きて戻ろうと、真田忍隊を相手に無傷であるわけがない。であれば、なんとでも理由をつけて任を解けよう。
 政宗様とて、しばらく会わねば忍の一人なぞ忘れてしまわれることだろう。
 策は成ったようで十日近くたっても奴は戻らない。
 それは良いのだが、主君の心が乱れてあり続けるとは憂うべき事態だ。
 そもそも……

「政宗様は書など何度も目を通さずとも良いと申され、目を離せば息抜きと称して手綱か刀を握っておられたものを!」

「さようでございましたなぁ」

「……その書、俺が運ぼう」

 急ぎ、兵方書を運んだ先で小十郎は目を疑った。
 あの血気盛んに突き進む政宗が、熱量を持てあますあまり諌めの言葉が間に合わぬ向こう見ずをしでかす主君が、背筋を正して書見台の前に座している。
 落ち着きがある、と見える者は良いのだろうが、小十郎には落日の城の出家寸前の主に見えた。  政宗独特の、熱気とか覇気というものがまったく感じられないのだ。

「政宗様。兵法書をお持ちいたしました。が、何かございましたか」

「……何か? どうした小十郎」

「は、近ごろ城内の者が政宗様のご様子を案じておりますれば」

 渡された書を手にし、じっと表紙を見つめる政宗は答える気配が無い。
 何か、その表紙に隠されたものを見出そうとでもするように見入っているのである。
 これは、まずい。
 奥州を統べた者が「奇妙な振舞い多く、気の病」という噂でも広まれば、ひとり政宗の問題でもなくなってしまう。
 なぜ己はもっと早く来なかったのか、という勢いのままに小十郎は政宗の肩を掴んで揺さぶった。

「いかがなされた、政宗様ッ!」

「ッと、何だ急に」

 不興が眉間に出ているが、小十郎の近づくことに気づかなかったことは明らかだった。

「何を気にかけておられるのか!?」

 よもや忍一人の不在が招いたとは思いたくないが、他には何の心あたりも無い。
 小十郎は固唾を飲んで政宗の返答を待った。
 ぱたり、と政宗の手から落ちた紙の束が静けさを破る。
 つづいて力押しに弾きかえすでもなく、自信に満ちて笑い飛ばすでもなく、困惑に満ちた、聞き逃がさんばかりの低い声が響いた。

「何、なんだか、な」

 小十郎の額に、じっとりと汗が滲んだ。
 こんな火の消えたような政宗は政宗では無いというのに、打つ手が浮かばなかったのだ。








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◇2015.04.04








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